雑誌類を片付けていて、15年ほど前の「太陽」(平凡社)に目がとまりました。表紙は舟越桂さんの彫刻。
ついページをめくり、博物学者で神秘学者の荒俣宏さんが、ソウルにシャーマンを訪ねた記事の特異さに興味をひかれ、読みふけってしまいました。(片付け下手の好例ですね)。
・・・高らかな音楽と派手な色彩、捧げものの笑うブタ、飛び交う万ウォン札。なまなましく、芸能じみた儀礼。
笑うブタ1頭(そう見えるように細工)と、色とりどりの盛り菓子が飾られた祭壇の前で、シャーマンと依頼者が交わす会話は… 「おまえに大儲けさせるから10万ウォン寄越せ」。「いやです。1万ウォン供えますから100万ウォン稼がせてください」。「それは虫が良すぎる。では、3万ウォンではどうか」…。
荒俣さんがさすがだと思うのは、結論づけないリポートをされていること。儀式の合間合間に供される人参ドリンクでお腹をくだした荒俣さんは、こんなふうにコメント。
「日本ならば、神は清い場所に降りる。しかし韓国の神々は、欲望のうずまく贄(にえ)の祭壇に、笑いながら降りたつ。」
「不浄や潔斎という概念が崩れるのを実感した。神々は欲する者にこそ手を差しのべる!」
肯定否定でなく、こんなふうに書かれると、「???」と内心、感じていたことも、それはそれでいいのではないかと思えてきます。荒俣さんのようなひとこそが、あちらこちらの垣根を超えて行き来できるひとなのだなぁと思います。
私は若い頃、神社仏閣に参拝拒否していた時期があります。もちろん、教会も。ひとを超える存在を信じるのと、ひとの運営する施設にお金を投じることは別だ、意味がないと言っていました。信仰へのそんなこだわりは、神様のような存在を求める気持ちが逆にとても強かったからかもしれません。うまく説明できませんが。今は、普通にお賽銭をあげて参拝しています。いつも同じ身近な人たちの健康と明るさを祈ります。いろんなことが混沌としたまま、混沌としたままをそういうものなのだと、受け入れられているのだと思います。
荒俣宏さんは1947年7月12日生まれ。算命学でいうと土性の司禄星を縦線に3つ持ち、破天荒な生月中殺。ほがらかそうに見えても本心は土の中、書籍蒐集マニアとして知られる点など、なるほどと思いました。従生財格破格で、破は、日支になるので、普通の家庭を持たないほうが荒俣さんの運勢は強いのですね。60代も驚かせてくれそうです…。
そして、大掃除は、なかなか終わらなかったのでした。
赤月さん、いらっしゃい。大晦日をいかがお過ごしですか。
内緒じゃないですよ。ご心配なく。サイドAもサイドBも私ですから。分けていると、逆にどちらも許容でき、自然に融合もしていく。そんなふうにとらえられるようになったのは、やはり運命学を学んだからだと思います。
よいお年を。課題、がんばってください!!
投稿 恵美花 | 2005/12/31 19:20:46